ならシルクロード博覧会 ロードサインシステム

1988年に開催された博覧会です。ロゴマークはあの田中一光氏です。私はこの仕事をきっかけにそれまで勤めていたジャガーミシンを退社/独立し、大阪府八尾市の自宅で「アトムデザインハウス」という名のデザインスタジオを始めました。勤めていた企業の仕事を通じて知り合ったフリーランスのインテリアデザイナーの方とふたりでこの仕事に取り組みました。

アートワークとしては、ロードサインのデザイン、簡単に言えば博覧会場へ至る道路に設置される看板のデザインです。もちろんコンピューターはまだまだ仕事の道具としては使えず、アナログ作業です。この仕事でロードサインシステムと言うもがのなんであるるかを知る訳ですが、最初は看板のデザインくらいわけない、と若さの勢いでかかっていった訳です。

ところが始めてみると、看板のデザインをするには、どれくらいの内容の表示が必要かがわからないとなりません。また、どの交差点のどの位置につけたら、クルマからはどれくらいに見え、どちらの方向へ誘導したらいいのか、なども考えなくてはなりません。文字の大きさと距離との根拠はどこで調べたらいいのか、会期内の交通料はどれくらい増大するのか、駐車場はどことどこがあるのか?そもそも奈良へはどの道が利用されるのか…。軽い気持ちでお受けしたこの仕事、開催前年の10月からスタートし、終わったのは翌年1月頃でした。この間、我が家は手伝いの人や、パートナーで24時間ごった返しており、また夜中でも電気が消えることはありませんでした。下賤な話で申し訳ないですが、「眠らない」の極地で仕事をしたため、生まれて始めて「赤ション」がでました。終わった時のサインの配置図はA3の紙で約200枚。なにしろ奈良県内の主要交差点はすべてバイクで走り、写真を撮り、プリントに仕上げ、それを見ながらサインの大きさや表示内容を決めていくのです。サインの表示図面と配置図面で400枚以上の納品物だッたと思います。まさに血の出る仕事でした。

この仕事の元請けはある大手ゼネコン。私はひ孫受けです。4ヶ月、血まで流して受け取った報酬は二人で110万円。アルバイト代やガソリン代、フィルム代に現像代を払うと生活費も出ず泣きました。バブルの終末期ではありましたが、世の中は好景気。私とそのインテリアデザイナー氏は、お金がなく、やむなく和歌山港に夜中、いわしを釣りに行ったたこともありました。ふたりで3ヶ月で110万円、それはあまりといえば余りの対価でした。

しかし、後日、この仕事の企画書や図面、資料をムラヤマに持ち込み、「これだけアホな仕事のしかたができるのならなんでも耐えられるだろう」と、目星をつけて頂き、さまざまな機会をもらえる元になりました。ですので、この仕事は、アトムグラフィックス夜明け以前の貴重な布石なのです。

 

 

有限会社アトムグラフィックス